
Who is 杉田のりひで?その1
宮原高校野球部の4番バッターだった「杉田のりひで」。
イメージカラーのオレンジは、青春時代にグラウンドでチームメイトと見た鮮やかな夕日の色だ。
東京大学法学部で学び総務省の官僚となった彼が目指していたのは人口減少の続く呉を復活させること。「呉を昔のように賑やかで活力ある街にする」という亡き恩師との約束を果たすため、55歳で官僚を辞した彼は退路を断ち、たった一人呉に帰って大きな戦いに挑んでいる。
友人は「まだ大学生の娘がおるのに無謀じゃ」と言ったが、それを笑顔で聞きながら彼は「呉の再建は今やらんと間に合わんのじゃ」と迷わず答えた。私はその笑顔に本当の覚悟と凄みを見た。
町おこしのため全国の自治体に出向き、それぞれの地で仲間とともに汗を流し現場主義とチーム力で多くの難題に立ち向かい、奈良県では副知事でありながら常に最前線に立ち続けた。彼にはこうして長年培ってきた人間力がある。
「市民が困っているときに全力で支えるのが市役所だ」という信念の元、彼には誰にも描けない確かな呉市の将来ビジョンがある。
Who is 杉田のりひで?その2
最強の4番バッター
		半年間、毎朝街頭に立ち続けて市民に手を振っている「杉田のりひで」
		雨の日も風の日も、彼が休むことはない。
		街角に2時間近く立って手を振り続けた後、彼は自らの足でポストにパンフレットを入れて回っている。それも毎日数百件である。
		東京から戻ってきた時は、色白の好青年だった彼が今では、真っ黒に日焼けして精悍な顔つきの男になった。
		そんな彼が、自宅に帰ると献身的に父親の介護をする親孝行な息子に戻るのだ。
		今まで介護してくれていた母が亡くなったんだから、自分が父の介護をするのは当たり前だと彼は言う…。一日中ハードなスケジュールをこなして疲れていると思うが、そんな素振りは全くみせない。
総務省時代、地方自治の先頭に立って、福祉の現場を見続け、応援してきた彼にとっては当たり前のことなのかも知れないが、私たちに色々なことを考えさせてくれる男である。
		宮原高校時代に野球部の4番バッターだった「杉田のりひで」
		多くの経験を積んで帰ってきた彼は、呉を復活させる「最強の4番バッター」になっていた。
これまでの主なしごと
- 総務省 地域政策課長
- 消防庁 緊急消防援助隊担当室長
- 副知事(奈良県)
- 町役場・企画課長(福島県三春町)
- 県庁・財政課長(新潟県)
|  韓国忠清南道李完九知事と連携交流のための会談 |  誕生に一役買ったせんとくんと共同募金 |  緊急消防援助隊の全国訓練 | 
|---|---|---|
|  総務省ヘリポートで出動訓練 |  総理出席の全国知事会の開催責任者を務める |  地域づくりの仲間と(当時:京都木津川市長・職員) | 
生い立ち
- 昭和44年5月31日生まれ(56歳)
- 呉市立昭和北小・中学校
- 広島県立呉宮原高校(野球部4番)
- 東京大学法学部卒業
- 自治省入省(平成5年)
|  父が乗艦していた潜水艦おやしお |  市内銀座デパートの上で |  呉宮原高校で野球部4番 | 
|---|---|---|
|  東京大学法学部に入学 |  大学時代にアメリカ横断・縦断のバイク一人旅(LA-フロリダ-NY) |  福島第一原発の現地視察 | 
ボランティア活動
- ハーブガーデン
- 福祉施設
- 防災(呉豪雨、能登震災、東日本大震災)
- 盲人マラソン
|  福祉施設のガーデニングボランティア |  東日本大震災で気仙沼市で3日間活動 |  東大寺の大仏さまのお身拭に出仕 | 
|---|---|---|
|  西日本豪雨で天応で活動(スーパーボランティアの尾畠さんと友達になる) | 
趣味
- トレランは絵下山や火山を走っています
- フルマラソン3時間2分
- ウルトラマラソン11時間
- トライアスロン(O.D)2時間30分
|  倉橋アクアスロン(Sクラス,DNF) |  舞洲トライアスロン(自転車) |  トレランでリラックス | 
|---|